2/25備忘録 禅と食

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備忘録

禅と食     枡野 俊明

食事をつくること、食べること、そこには禅の教えがふんだんに詰まっている。

食事のなかには禅の本質がある。

たとえば食事のしたくにとりかかるとき、、目の前にある食材をどう扱うか、それは単に料理をするということにとどまらず、人とどうかかわるか、さらにはどんなふうに生きていくか、ということにまでつながっている。

食べる前のふるまい、それは食事の作法というだけでなく、生きていることの意味や縁というものの大切さに気づき、そのことにこころから感謝するということでもある。

食材のひとつひとつを大切にするということは、自分とかかわりを持ってくれているどの人とも、誠意を持ってつきあうということにつながる

食事を丁寧にするということは、一生懸命仕事をすることと同じ

食事を見直すということは、日々の行い、ふるまいを見直すこと

食事を整えることは、こころを整え、「生きる」ことそのものを整えていくこと

禅では「食」をきわめて大事なものと考える

「行住坐臥」

歩くこと、とどまること、坐ること、寝ること

つまり日常生活のあらゆるふるまい、すべての所作が修行

食事をいただくことも修行。食事と仏道は一体のもの

食事は修行そのものであると同時に、修行を根本で支えるものでもある

食材に対する心のありようは人間関係にもあらわれる

たとえ粗末な葉っぱを用いてお汁物やおかずを作るときでも、これをいやがったり、いいかげんに扱ったりする心を起こしてはならないし、たとい牛乳入のような上棟な料理を作る場合でも、それに引きずられたり、浮かれはずんだりする心を起こしてはならない

決して品物のよしあしにひきずられて、それに対する自分の心を変えたり、人によって言葉づかいを改めたりしてはならない

どんな食材であっても同じように誠意をこめて調理をする

其の繰り返しが、相手がだれであっても変わらぬ誠意を持って接するあなたにつながっていく

あなたとその食材は「縁」で結ばれている

「どんな食材も100人の手を経ていまそこにある」

生産農家でつくられるジャガイモは数万個、あるいは数十万個にものぼる。料理をしようとしているあなたの目の前にあるのは、その数万個数十万個のなかから最後にあなたが店頭で選んだ数個のうちのひとつ

確かな縁といえる

このように目には見えなくても、一つの食材の背後には、それを届けてくれた大勢の人たちがいる

今目の前に置かれている食事には、どれほどたくさんの人の手がかかっているかを思い、そのことに感謝していただく

食材は大切に余すことなく使い切る

材料(米や野菜など)を人間の眼のように大切にしなさい 道元禅師

「一切衆生悉有仏性」

この世に存在するものには、ことごとく仏性が備わっている

野菜の切れ端にも仏様の命がある

ありったけの心をこめる

唯ひたすら自分の本分をまっとうする

意図も思惑もまったくない。其の姿が聞くもの見るものに心地よさを感じさせる

食事を創るときの本分は、言うまでもなく食材のひとつひとつを丁寧に扱い、それぞれのよさを余すところなく引き出すよう務めること

その本分をまっとうしていれば、そこに輝いているあなたがいる

どこにいても、何をしていても、心をこめて取り組んでいれば、その場所が道場であり、そのおこないが修行である

一瞬一瞬のふるまいが、大海につながる一滴であり、大山をつくるひとつまみの土である

料理をつくるというそのことをまっとうする。それは坐禅にも匹敵する価値ある修行、人生のあゆみである

「一日作さざれば、一日食らわず」

働いたものにこそ食べる権利がある

働かないものには食べる権利がない

労働の義務を果たすことによって食べる権利が得られる

食事をすることも、生きることそのもの

同じように「生きることそのもの」である作務をしないで、一方の食べることだけをする、というのはおかしい。ありえないというのが、百丈禅師のいわんとするところ

仕事に一生懸命打ち込んだら、仕事というなすべきことをし終えたら、食事というなすべきことも充実してできる

禅の根本理念は「実践」

たとえたった一つでも、実際似自分でやってみることに意味も価値もある

自分の身体を使って実践してみる。そのなかで失敗や成功を体感しなければ、どんなにすぐれたノウハウや発想法もなんの役にも立たない

「日々是好日」

どの一日もあなたにとってかけがえのない経験をもたらしてくれた一日である経験に大小、軽重などない

楽しい経験もつらい経験も、あなたにしかできなかった等しくかけがえのないもの。

そう受け取れば、すべての日が「好日」ではないか、と禅語はいっている

どんな経験もかけがえのないもの、大事なものと受け止めて生きていく

一粒の米も無駄にしない心に沿った生き方とはそういうもの

禅苑清規

苦い・酸い・甘い・辛い・塩からい・淡いの六つの味がほどよく調っておらず、また経軟(あっさりして柔らか)浄潔(きれいで汚れがない)如法作(法にかなった調理がなされている)という料理の三徳がそなわっていないのでは典座が修行僧に食事を供養したことにはならない

三徳六味の言葉で表現される、料理の味つけの基本や料理をする姿勢は、人としての味わいということにも通じている

人生の機微に通じる味わい深い人を「酸いも甘いも噛み分けた」と表現することも、それを証明するものである

味のバランスを整えるように、心を整えていく

三徳をもって料理にあたるように、柔らかくきれいな心でっ誠実にものごとにも人にも接していく

そこに人としての味わいも備わっていく

大切なのはどんな瞬間もおろそかにせず、常に最新の注意を払いながら、一瞬一瞬を丁寧に丁寧に、生きていくこと。

人生はひとつひとつの経験の積み重ねである。そして、経験は自分がその時間に主役としてかかわってこそ、意味のあるものになる。合間の仕事という感覚で取り組む調理では、そこに主役としての自分はいない

主役としてかかわるというのは、そのことに自分のすべてを投げ込むこと

ほかのどんなことにもとらわれず、ただそのことだけに打ち込む、夢中になる。

相手が誰であっても、いつも同じ気持ちで料理していれば、迷いもないし、どっしりと安定した心でいられる

心にとめておくべきことは、ただそのとき、そこで料理をすという、そのことだけに一生懸命になること

一つ一つの食材を、時間と足を使って選びぬき、作り方もじっくりと調べてできあがった湯豆腐は、格が違う

シンプルな湯豆腐が、極上のごちそうになる

食材の一つ一つに、調理の手間のひとつひとつに、深い思い(もてなしのこころ)がこもっているから

「而今」ニコン

通り過ぎてしまった過去はどうすることもできないし、来るべき未来がどんなものになるかはわからない。たしかなものは「いま」しかない。いまやるべきことを一心におこない、いまを大切に生きなさい

調理道具を自分そのものと思いなさい

道具の手入れはいまひとつだが、味は絶品という店はおそらく世界中をさがしてもみつからない

調理道具はその人自身、その人の料理に向き合う姿勢を端的に伝えるもの

修行の第一は掃除をすることであり、信仰心はその次のもの

禅では掃除によって掃き清め、拭き清められるのは、庭や廊下にとどまらず、自分自身の心

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